著者:瀬川泰祐

あの日、安藤美姫は福岡にいた。
東京で開催予定だった世界フィギュアスケート選手権(以下、世界選手権)へ向け、練習をしているときに起きた未曾有の大災害。
大地の揺れすら感じなかった自分と、周囲から聞こえてくる緊迫した状況。
あまりのギャップに困惑し、何もできない自分の無力さを呪った。

1カ月半が経過し、開催地をモスクワに変更して行われた世界選手権で、安藤は見事に優勝を飾り、
日本の人々に勇気と感動を与えた。しかし安藤は「本当は棄権するつもりだった」と語る。
あのときに抱いた「何かをしたい」という想いはいまも変わらない。
震災から10年の節目を迎えた今、彼女は何を思うのか。その胸のうちに迫る独占インタビュー。

日本中に勇気を与えた2011年の世界フィギュアスケート選手権

瀬川:東日本大震災が発生したとき、安藤さんはどのような状況だったのでしょうか。

安藤:東京で開催が予定されていた世界選手権に向けて調整をしていました。
当時、わたしの活動拠点はアメリカだったので、時差調整を兼ねて早めに日本に帰国し、
他の海外選手たちとともに福岡を拠点にして練習している最中だったんです。

瀬川:そのときに、震災が起きたのですね。

安藤:はい。練習のためにスケート靴を履こうとしていたときに、地震が発生しました。
ただ、福岡では地震の揺れを感じず、私がテレビの無い場所にいたこともあり、
地震が起きたことには気がつきませんでした。

一緒に日本へ来ていたフランス人選手が「いま日本が大変だ!」とパニックに陥っていたんです。
でも私はまだ状況を把握していなかったので、「日本は地震が多い国だから安心してよ」と声を掛けていました。
でも、彼の様子が尋常ではなかったので、慌ててテレビを付けました。
すると、画面越しに映し出された現地の光景が、ただただ衝撃的で……。
はじめは何が起きているのかを理解できませんでしたが、
テレビやインターネットで地震の情報を収集し、ようやく事の重大さを理解することができました。

瀬川:世界選手権を目前に控えていた状況での地震発生でしたが、当時の心境を振り返っていただけますか。

安藤:事の重大さを理解した後は、試合のことを考える余裕はありませんでした。
世界選手権が開催できる状況ではないことを、私たち選手やコーチ陣は察していました。
「私たちに今できることは何だろう?」と考えた矢先、ちょうど福岡のスケート会場が使えるということを知り、
地震発生の翌々日にチャリティーイベントを開催する運びになりました。

瀬川:迅速な行動だったんですね。その後、世界選手権の開催地がモスクワに変更されました。
この大会で安藤さんは見事に優勝を飾り、日本国民に勇気を与えるニュースを届けてくれましたが、当時のプレッシャーは相当なものだったのではないでしょうか。

安藤:本当は、棄権しようと考えていたんです。

瀬川:その理由を詳しく教えていただけますか?

安藤:震災とはシチュエーションは違うかもしれませんが、私自身も9歳の頃に父親を交通事故で亡くしています。
それまで両親はいつもそばにいてくれる存在だと思っていました。
いつもと変わらず父と一緒に朝ごはんを食べ、「いってらっしゃい」と声を掛けてもらって小学校へ向かったのですが、平穏な日常から父は突然いなくなりました。
自然災害と交通事故の違いはありますが、大切な人と離れることになってしまった人たちの気持ちが
痛いほどわかったので、「今は本当にスケートをするべきなのか」と自問していました。
震災が起きた直後は競技生活を送れるような精神状態ではなかったです。

瀬川:厳しい精神状況の中、世界選手権へ出場することにしたのはなぜでしょうか?

安藤:リンクに足を運んでも、全く練習に身が入らず、すぐに家に戻ってしまうような日々が続き、世界選手権は棄権した方が良いと思っていたんです。
そんなある日、東北の方から
「いつも美姫さんの演技を見て元気をもらっています。こんなときだからこそ、モスクワで開催される世界選手権に頑張って出場して欲しいです」
という内容のお手紙をいただきました。
このメッセージをいただかなければ大会には出場していなかったです。

瀬川:アスリートとしてできることがあると気づかされたのですね?

安藤:はい。その手紙を受け取ったことがきっかけで、自分の演技が人のためになることに初めて気づくことができました。
それまでは「アスリート」として自分のために演技してきたところが大きかったのですが、この世界選手権は、初めて「人のため」「日本のため」に演技をした大会になりました。

瀬川:会場となったモスクワ現地の様子はいかがでしたか。

安藤:多くの日本人の方が現地に足を運んで応援してくれました。
また海外の方も日本の国旗を掲げてくれるなど、今までには味わったことのない、暖かい雰囲気のなかで行われた世界選手権でした。
大会に参加していた海外選手たちからも、「日本のために一緒に頑張ろうね」と声を掛けていただきました。
「全世界が日本のことをこんなに想ってくれているんだ」ということを認識し、
SNSなどを通じて届いた日本からのメッセージにもしっかりと目を通してから、スケートリンクに向かうことができました。

瀬川:スケートリンクに立ったときは、緊張したのではないでしょうか。

安藤:いえ、その反対で、むしろおだやかな心境でリンクに立ち、良い緊張感で演技をすることができました。いろいろなことがつながって、優勝という結果に至ったと思います。

安藤美姫が社会貢献活動に積極的なワケ

瀬川:安藤さんは東日本大震災の発生前から、積極的に社会貢献活動へ取り組んでいたと伺いました。
18歳のときに、チャリティで販売したリストバンドの売上を慈善団体へ寄付したことが社会貢献活動のスタートだったと思うのですが、このような活動をすることになったきっかけは何だったのでしょうか。

安藤:たしかにわたしがスケーターとして認知されるようになってから初めて公の場で行った活動は、
「トゥインクルバンド」のチャリティー事業でした。でも、それよりも以前から募金活動などに参加してきたので、
社会貢献活動のきっかけを意識したことはないんです。
わたしが通っていた小学校はボランティア活動にとても積極的で、子供の頃から自然と社会貢献に関わっていたように思います。

瀬川:「社会貢献活動」というと少し堅苦しさを感じてしまいますが、
安藤さんの場合、幼い頃から自然とそのような活動に触れてきたことが、現在の活動につながっているのですね。

安藤:そうですね。東日本大震災のときに「どう動けば良いか分からない」という方もたくさんいました。
「社会貢献」や「ボランティア」というと、大それた行動を想像してしまいがちですよね。
でも、大切なのは「気持ち」だと思うんです。
たとえば、コンビニエンスストアやカフェのレジの横には募金箱が置かれていますし、
スーパーには被災地の食材が並んでいるように、私たちの日常には、社会貢献の入り口はたくさんあるんです。

瀬川:被災地のことを気にかけるだけで、それが復興支援につながっていくんですよね。今年は東日本大震災から10年になります。

安藤:はい。節目の年でもあるので、表現方法が正しいかは分かりませんが、
もっと「気軽」に社会貢献やボランティアに関わることが大切だと思います。
もっと自然な形で社会貢献の輪が広がっていってほしいですよね。

瀬川:そのような安藤さんの想いが、東日本大震災を風化させないことを主旨に開催してきた、
「Reborn Gardenプロジェクト」にもつながっているのですね。

安藤:「Reborn Gardenプロジェクト」は、2012年から続けてきた活動です。
わたしは2011年シーズン終了後に選手としての活動を休止し、以降は海外のアイスショーに参加する機会が増えました。
そこで、「現役ではないからこそ、できることがある」と気づき、2012年3月11日にチャリティーでアイスショーを開催することにしました。

瀬川:このプロジェクトの名前の由来には、さまざまな意味が込められているとお伺いしました。

安藤:英語で「Reborn」は、「再生」「元に戻す」「生まれ変わる」ことを意味しています。
そして、ひも状の織物である「リボン」は約束や絆の象徴で、
特に日本では「人と人を結ぶ」という意味を持っています。
この2つの意味を掛けて「Reborn(リボーン)」という言葉を選びました。

瀬川:「Garden」にはどのような意味が込められているのでしょうか。

安藤:「Garden」=「庭」としたのは、東日本大震災がわたしたちの愛する国・日本で起きた「自然災害」だったからです。
庭を再生する、絆を元に戻す、という意味を込め、「Reborn Garden」と名付けました。

瀬川:素敵なプロジェクト名ですね。
残念ながら今年は新型コロナウィルスの影響で、チャリティーショーの開催はできなかったそうですが、
フラワーギフト事業を手掛ける「BLANC(ブラン)」さんとのコラボしたチャリティー商品を
発売していると伺いました。

安藤:BLANCさんでは半永久保存できる本物のお花をプレゼントすることができそこで今回、
お花に私の写真を埋め込み、それをカメラで読み込むとAR(拡張現実)動画で私の思いを込めて滑ったスケートの作品が見られるような商品を作っていただきました。 

ショーの開催ができない中、スケーターとしていまできる事を考え、
BLANCさんとのコラボ商品を発売する運びになりました。
売上の一部は先程お話ししました私のReborn Gardenプロジェクトと慈善団体を通じて
被災地に寄付をさせていただくことになっています。

3月11日に、同じ空の下で過ごすということ

瀬川:安藤さんは毎年3月11日になると被災地に直接足を運んでいるそうですね。

安藤:はい。毎年現地に行って、同じ空の下で過ごすことにしています。
ご縁があって、2012年から宮城県石巻市の子どもたちの支援に関わってきました。
大人の方は、それまでの経験から立ち直る術を知っていたる人が多いと思いますが、
子どもたちには進むべき方向性をしっかりと示してあげる必要があるのではないかと思い、
子どもたちをサポートさせていただいています。
現地では一緒に灯ろう作りをしたり、日和山に行ってお供えをしたり、津波の被害に遭われた石巻市立大川小学校に行って黙祷(もくとう)に参加したりしています。
そのおかげで当時小学生だった子どもたちとは今でも交流が続いています。

瀬川:当時はまだ幼かった子供たちも、大きく成長されたのではないでしょうか。

安藤:震災でお母様を亡くされてしまったことをきっかけに、全くピアノを弾かなくなってしまった女の子がいました。
大好きだったことが、何かをきっかけにして嫌いになってしまうことは、私にとってとてもつらいです。
弱音を吐いても良いし、ときには諦めても良いと思います。
でも「好きな気持ちを忘れて欲しくない」という想いがあります。
私はその女の子に、もう一度ピアノに触れて欲しいと思っていたので、「誕生日の子がいてさ〜」
「今度、アイスショーで弾いてくれない?」など、自然な声掛けを続けていました。
少しずつ笑顔が増えていき、今では毎年その子と一緒に日和山にお供えに行ったり、ときどきピアノも弾いてくれたりしています。

瀬川:彼女に笑顔が戻ったんですね。それもアスリートの持つ力ではないでしょうか。

安藤:彼女がもう一度、好きだったことに向き合うきっかけづくりに、少しでも役に立てたとしたら嬉しいですよね。

瀬川:被災地の子供たちが好きなことに向き合うことができなくなったのは、やはり避難所生活などが影響しているのでしょうか?

安藤:当時の子どもたちにとっては、「今を生きる」こと自体が目標だったと思います。
そういう意味では、この女の子は今年から大学生になって一人暮らしをすると聞いたので、
立派に今を生きていると感じました。

瀬川:今でも交流があるということは、安藤さんにとっての「支え」にもなっているのでしょうか。

安藤:そうですね。子どもたちと関わる中で、日常が当たり前だと思わないことの大切さを改めて感じさせてもらっています。
私自身も9歳のときの経験から、「過去を振り返らず、未来を見ない」ということが、常に心のなかにありました。
人生は何が起こるか分かりません。
東日本大震災の被害に遭われた子どもたちと出会えたことも何かのご縁だし、
きっと私にとっても何か意味のあることなので、この交流をこれからも大切にしていきたいです。

瀬川:「同じ空の下で過ごしたい」という想いの裏には、どのような感情があるのでしょうか。

安藤:幼い頃から「空」が大好きなんです。姿が見えなくて喋れないかもしれないけど、空を見上げたら父と会える気がします。
子どもの頃から海外へ遠征に行くことが多かったんですが、
空には父がいたので、いつでも支えてくれていると感じ、強い気持ちになれました。
だから3月11日は被災した方たちと「毎年同じ空の下で過ごしたい」と思い、
現地に足を運ばせていただいています。

東日本大震災から10年のときを経て感じる課題

瀬川:東日本大震災から10年が経ちますが、震災の「風化」については、どのようにお考えでしょうか。

安藤:毎年3月11日になると、東日本大震災に関する報道が多くなります。
もちろん、それも大切なことですが、実際には3月11日以外の364日間にも被災者の方たちには生活があります。
物凄くポジティブな方は、震災から1年で何事にも前向きに取り組むことができるかもしれませんが、
一方で10年が経った今でもつらい想いをしている方もいます。
復興のスピードも地域によって差がありますし、今でも仮設住宅に住んでいる人もいます。
そのような現実を「現地の人の言葉」とともに全国に知らせる力がある報道の力がまだまだ必要だと感じています。

瀬川:例えば、当時の映像を流すことの是非や、メディアが伝えられない現実など、報道にも大きな課題があります。
そのようなことも含めて皆が課題意識を持ちながら議論できるといいですよね。

安藤:いまは個人にもできることがたくさんありますよね。微力かもしれませんが、SNSなどを通じて少しでも今の現実を多くの方に知っていただけるように、発信し続けていきたいと思います。