著者:瀬川泰祐

シドニーオリンピックの男子柔道100kg超級で金メダルを獲得した井上康生さん。引退後は、柔道男子日本代表の監督として、リオデジャネイロオリンピックで金メダル2個を含む7階級全てでメダルを獲得するなど、低迷が続いた日本男子柔道を復活に導いた。そんな井上さんは、現在、代表監督や母校・東海大学の体育学部准教授そして柔道部副監督を務める傍ら、柔道を通じた社会貢献活動を行う「特定非営利活動法人JUDOs」(ジュウドウズ、以下JUDOs)の代表を務めている。今回は、井上さんが行っているJUDOsの活動に迫ってみたい。

柔道の普及と発展のために生まれた「JUDOs」

現役時代より柔道衣を携えて世界各国・地域を訪問し、たくさんの人々と交流をしてきた井上さんは、柔道をはじめとするスポーツが、国や人種、宗教、政治、文化などの垣根を越えて多様性を認め合う社会の実現に大きく貢献しているということを実感していた。その一方で、貧困や紛争などさまざまな社会問題により、教育を受けたり、スポーツを行ったりすることが出来ない人が多くいるという現実を知った。そこで、柔道を通じて国際理解や交流、子どもの健全な育成を図りながら、柔道やスポーツの普及と発展に役立ちたいと願って生まれたのがJUDOsだ。

現在、国際柔道連盟には201の国と地域が加盟している。2016年に実施したミズノの調査によれば、当時の日本の競技人口が16万人だったのに対し、フランスには56万人の競技者が存在するなど、世界中に柔道は広がっている。中でも、最も競技人口が多いのがブラジルで、200万人以上が柔道に親しんでいると言われている。

しかし、現在のブラジル社会では、残念ながら、誰もがスポーツを平等に楽しむことはできない状況だ。ブラジル地理統計院は、2017年の国内人口のうち26.5%の約5480万人が月収406レアル(約1万1700円)以下の貧困層にあたるというデータを発表した。また、同年のOECD(経済協力開発機構)のデータでも、ブラジルの貧困率は世界で3番目に高いとされている。さらに、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて、失業率が大幅に増加しており、今後も貧困層が増加していく可能性が極めて高いとみられている。こうした明日を生きていくことも困難な状況下にある貧困層の人々が、自ら競技に必要な用具をそろえ、必要な環境を整えてスポーツを行うことはとても難しいだろう。実際、JUDOsで支援を行ったブラジルのパラナ州クリチバにある道場に通う約250名のうち140名が、貧困家庭や家庭環境の問題により、クリチバのスポーツ局が推進しているプログラムの支援を受けている子どもたちだという。

先輩たちの意思を受け継いだ「JUDOs」への熱い思い

JUDOsではこうした柔道を行う環境が整っていない発展途上国を中心に、世界各国に向けて使わなくなった柔道衣や畳を届けている。この活動はロサンゼルスオリンピックで柔道日本代表の監督を務め、井上さんの大学時代の恩師でもある佐藤宣践さんが「リサイクル柔道衣」としてスタートさせた。その後、山下泰裕さんが代表を務める「特定非営利活動法人柔道教育ソリダリティー」が13年をかけて活動を大きく育て、2019年のJUDOs立ち上げと同時に井上さんに引き継がれた。井上さんは、JUDOsを立ち上げてから約1年半で1608着の柔道衣と241畳の柔道畳を17カ国の人々に届けてきた。

JUDOsの活動はリサイクル柔道衣や畳だけにはとどまらない。日本で柔道をしたいという夢を持つ柔道選手を受け入れ日本人選手と一緒に合宿を行う機会の提供、発展途上国を中心とした指導者を受け入れ柔道の基礎から実践的な技術を伝えてその国のレベルアップを図っていくコーチングセミナー、日本から指導者を派遣して海外のクラブチームの指導や柔道体験会を行うなど、さまざまな活動を行っている。

5歳から柔道を始め、人生のほとんどを柔道とともに生きてきた井上さんは「柔道が大好きなので一生柔道に携わって生きていきたい」と柔道への熱い思いを口にする。また「男子日本代表監督という立場上、勝負にはこだわっていかなくてはならないが、さまざまな活動を通じて柔道を社会に活かし、社会にとって価値あるものだと認めていただけるように活動していきたい」とJUDOsの活動への意気込みを語る。現在は、新型コロナウイルスの影響により、リサイクル柔道衣の受付を中止するなど、活動が制限された厳しい状況ではあるが、「今後も大きな夢や希望を与えるきっかけになるような活動を広げていきたい」とこの先もJUDOsの活動を大きくすることを目指しているようだ。

「自分を導いてくれるのがHEROs」

「東京雪祭SNOWBANK PAY IT FORWARD×HEROs FESTA2019」に登壇した井上康生さん

このように柔道を通じた社会貢献活動を行っている井上さんは、HEROsのアンバサダーという役割も担っている。「自分自身が目指していきたい方向に導いてくれるような活動」とHEROsを評している井上さんは、広島県や岡山県を中心に大きな被害の爪痕を残した「平成30年7月豪雨」の被災地に訪問した際、HEROsアンバサダーたちが被災者を励ます姿と、それを心から喜んでいる被災者の姿を見て、この活動の大切さを改めて実感したという。またこの活動が、避難所である体育館で過ごさねばならない被災者の人たちに畳を届けるというHEROsとJUDOsのタイアップ活動を行うきっかけとなった。この活動だけではなく、井上さんは、同じくHEROsアンバサダーでラグビー選手の五郎丸歩選手と一緒に発起人となり、スポーツで学んできた生きる力を子どもたちに伝える「キッズスポーツキャンプ」を実施するなど、積極的にHEROsの活動に参加している。

それまでの経験を中高生に。 井上康生さんがHEROs LABに登場

そして、9月1日に開催されたHEROs LABのオンラインイベントには、講師として登場。「今こそ新しい挑戦をしてみよう!」をテーマに、夢や目標を持ち一直線に進んだ現役時代の話に加え、監督になって気付いた回り道の価値についての講義を中高生に向けて行った。日本代表の監督となり選手に競技以外のことも身につける機会を与えている井上さんは、回り道をするということに関して、「何事も一直線で物事が達成出来ればいいが、やはり心も体も行き詰まってしまう部分があるため、時にはゆとりを持つことも重要。その中で回り道をしてさまざまなことに触れれば、長期的な目線で見た時に自分の幅を広げてくれるヒントがあると思う」と中高生に向けてその重要性を伝えた。また、「大きな目標を描きながら身近で自分が出来ることを一つ一つこなしていき、1日1日を大事にすることが次のステップにつながる。今はそういう考えの中で日々を過ごしている」とコロナ禍で思うように活動が出来ない中でもポジティブに活動をする方法を自身の行動とともに紹介した。

「まずは監督という立場から来年開催される予定の東京オリンピックに全力を尽くしていきたい」という井上さんだが、今後も自分の可能性を知った上で何に取り組めるかを考えさまざまなことにチャレンジしていきたいという。これまで井上さんが行ってきた社会貢献活動は、柔道やスポーツ、そしてアスリート・井上康生としての価値を注ぎ込んできた。このような活動から新たな可能性を見いだし、より良い社会を実現していく井上さんの活動に、これからも期待していきたい。