HEROsでは、競技以外の場面においても広く社会のために貢献したアスリートたちを、誰もが憧れるようなHEROとして讃え賞賛する『HEROs AWARD』を実施しています。

今年、この『HEROs AWARD2022 アスリート部門』を受賞したのが、元プロボディーボーダーの堀由美恵(ほり・ゆみえ)さんです。

堀さんは2歳のとき、耳が聞こえないことが判明。周囲に馴染めず悩んでいた18歳のころに出会ったボディボードの魅力に惹かれプロ選手となりました。引退後は東北大震災復興支援活動として『陽(あ)けたら海へ』を主催し、東北の子どもたちへサーフィンスクールを実施。そのほかにも講演会などを通じて、自身の経験や海の持つ無限の可能性を伝えています。

障がいを持つ当事者として、これまでの人生における葛藤や心境の変化、世の中が本当の意味で「平等」になるために必要なこと、活動にかける思いを伺いました。

2歳から両耳が聞こえず…周りに恵まれて助けられた

私は2歳のとき、両耳が聞こえないことが分かりました。後ろから呼ばれても振り向かなかったり、テレビに耳をくっつけていることがあったので、祖父が「病院へ連れていけ」と言ったそうです。小学生のときは先生の話していることが分からず、隣の席の子の真似をしているだけ。勉強をする意味が理解できないまま中学生になりました。

当時は耳の聞こえない自覚がなかったので、「みんな、先生が口をパクパクしているのを見て何を感じているのだろう」と思っていました。周りが話していることも分からないので、休み時間もひとりぼっち。いじめられることもありました。ただ家に帰ると、母が「やられたら、やり返しなさい」と言うんです。すごく気の強い母だったので、それを受け継いでどうやったら耳が聞こえないことをバカにされないかを常に考えていました。

手話ができればまた違ったのかもしれませんが、母からは手話を習うことも禁止されていたんです。「手話があると声を出さなくなるからダメだ」と。でも、耳が聞こえない人のコミュニティでは手話が当たり前。二十歳くらいのときに地元の手話サークルにこっそり参加したのですが、私だけが何も分からないことがショックで泣きながら帰ったことを覚えています。

それでも、周りの人には恵まれて助けられていましたね。例えば、学生時代に好きな人と待ち合わせをするとき。私だけではコミュニケーションが取れないので、姉に間に入ってもらっていました。待ち合わせ場所がバレるのは嫌でしたが(笑)。そういった経験から、大人になったら恩返しをしたい、誰かを助けたいという思いが強くなりました。その気持ちが『陽けたら海へ』の活動にも繋がっています。

取材当日も、聴覚障がい者向けのヨガとSUPのイベントが行なわれていました

二十歳で迫られた大きな決断。音が聞こえる人生よりも『海での人生』を選んだ理由とは

どの世界にも馴染むことができず悩んでいた18歳のときに、ボディボードと出会いました。どんな人にも同じ波がくる…平等な世界がここにあると感じました。海との出会いが私の人生を大きく変えたんです。

私は進行性の難聴だったので、20歳のときには「あと5年もしたら完全に聞こえなくなる」と言われ、人工内耳の手術も勧められていました。ただ、脳にマイクを埋め込むので、手術をすると激しいスポーツをすることはできません。もちろんボディボードも辞めたほうがいいと言われ…音の聞こえる人生をとるか、海での人生をとるかの選択を迫られました。

そのとき、「耳が聞こえることに何か大きな意味があるのかな」と思ったんです。それくらい海と出会って自分の人生が大きく変わっていたので、私は海を選びました。今では、手術をしなくて良かったと感じています。

引退後に「何もしてこなかった」と気づいた

25歳のとき、千葉に引っ越してサイレントサーファーの方と初めて会いました。ただ、そこでもみんな手話を使っていたので、なかなか輪に入ることはできませんでした。当時の私は「耳が聞こえなくてもできる」と証明したかった。聞こえないことが理由で諦めたくなかったし、聴者の選手と同じ世界で戦いたいと思っていたんです。

そんな私の気持ちが変わったきっかけは、引退後に『Ocean’s Love』という障がい者向けのイベントに参加したことです。サーファーのアンジェラ・磨紀・バーノンちゃん(HEROs AWARD 2017受賞)がやっているイベントで、彼女の「誰でも海を楽しむ権利がある」という考えに共感しました。引退して燃え尽きてしまっていたのですが、そこで初めて同じ境遇の人たちに対して今まで何もしてこなかったと気づいたんです。

まずは、これまで勉強してこなかった手話をはじめました。手話はすべて目に見えるから、みんな物事をハッキリと伝えるんです。なんて楽しい世界なんだと思いました。

『陽けたら海へ』の活動をはじめたのは、東日本大震災がきっかけでした。震災からしばらく経って、仙台の友だちから「子どもたちを海に連れて行ってほしい」と頼まれたんです。

震災を経験して、なかなか海に入れなくなってしまった子もいました。それでも久しぶりに海に入っている姿とか、砂浜で遊んでいる様子を見ると、やっぱりみんな海が好きなんだなと。海は子どもたちが持っている本来の感情が素のままにあらわれる場所。最初は緊張で表情が固いのですが、波に乗っているときはすごく楽しそうなんです。子どもたちの笑顔は、海からもらった宝だと思います。

もちろん、海の怖さもきちんと伝えています。怖さを知ったうえで波に乗ることで、海が偉大な存在であることを理解することができますからね。

『平等』とは、お互いに力を出し合って助け合うこと

今年から聴者と耳の聞こえない子が混ざって参加するイベントもはじめたのですが、子どもたちにとって、障がいがあるかどうかなんて関係ないのだなと実感しています。耳が聞こえても聞こえなくてもすぐに仲良くなる様子は、大人が子どもたちから学ぶべき部分かもしれません。

世間的に、障がい者は「弱者」というイメージがありますよね。でも実際は、「個性をもった人」なんです。耳の聞こえない私は、人の表情を読み取ることや読唇術に優れています。目が見えない人は、人の声や周囲の音を聞き分けることに優れています。

聴者にできないことが、障がい者にはできるんです。なんでもかんでも困っていると決めつけて助けることが、平等ではありません。お互いに力を出し合って助け合うことが、本当の意味での「平等」なんだと思います。

以前、車いすの人がエレベーターに乗ろうとしているときにボタンを押してあげたら、「頼んでいないんだけど」と言われたことがあります。私が勝手に「その人にはできない」と思い込んで、失礼なことをしたと反省しました。逆に私自身も、読唇術で会話をしているときに、隣で手話をされると気が散ってしまうこともあります。そういった経験から、イベントのスタッフには、「相手が本当に困っているのかをきちんと見極めるように」と伝えています。

私は活動を通して子どもたちに「海と出会い、人生が変わった経験」を伝えたいと思っています。それが、命をかけて競技を続けてきたメッセンジャーとしての役割です。「難しいからこそ、やる意味がある」という成功までの過程を伝えることで、社会に出てからも自分の力で生きていくんだと知ってほしいです。

あとは私たちがもっと挑戦して、スキルアップをして、できることを見せていかないといけません。「あの人はこんなことができるんだ」と理解してくれれば、距離が縮まるじゃないですか。だから頑張らないといけないし、伝えていかないといけないと思います。