柔道をしているときは、戦争を忘れられる

2022年8月4日(木)に横浜武道館、8月24日(水)に学校法人浅野学園 浅野中学校・浅野高等学校(神奈川県横浜市)にて、日本の五輪メダリストがウクライナ難民の子ども達へ柔道教室を行なうイベントが開催されました。

ウクライナ・オデーサ市の柔道クラブの子どもたちが横浜市へ一時的に避難しており、彼ら彼女らを元気づけようと、日本財団HEROsと横浜市が連携して本イベントが開催されました。講師としてやってきた五輪メダリストは西山将士さん、井上康生さん、そして羽賀龍之介選手の3名です。

8月4日の横浜武道館の回には西山さんが、24日の浅野学園の回には井上さんと羽賀選手が来訪して子どもたちと交流しました。

参加したのはオデーサ市の柔道クラブに所属する10歳~15歳 のウクライナ避難民の子どもたちです。紛争が始まって約半年後の7月18日に、ウクライナからポーランドのワルシャワを経由して日本へやってきました。

成人男性は兵士として戦場へ招集される可能性があるため、子どもたちの父親はウクライナに残りました。オデーサでは日常生活を送ることが出来ている一方、空襲警報が鳴ったらシェルターへ……という生活を続けていたとのことです。

ウクライナにおいて、最もポピュラーなスポーツはサッカーですが、柔道も人気競技の一つです。オデーサのクラブには1,000人近くの会員が在籍しており、ウクライナに柔道文化を根付かせようと日々活動しています。

戦争が始まり柔道に取り組む機会が減っていった子どもたちにとって、今回の交流イベントは久々に柔道に触れられる機会でした。

4日に行なわれた教室で初めて日本の柔道家と対面した子どもたちは緊張していた様子でしたが、西山さんの和やかな声かけと指導を通じて徐々に緊張もほぐれ、乱取りや技の指導になると前のめりに。実技指導、乱取り、組み合いの練習に真剣に向き合いました。

座談会では子どもたちが西山さんへ積極的に質問を浴びせます。内容は、五輪のことから西山さんがこれまでに対戦したウクライナの柔道家の印象など、多岐に渡りました。

その中で、ある少年が語った言葉がとても印象的でした。

「私達の祖国が戦争中で辛い日々が続くけど、柔道をしている瞬間は辛いことを忘れることができました」

座談会

一瞬でも辛い日々を忘れることができるスポーツの力を、その場にいた全員が感じたことでしょう。しかし、子どもたちは戦争から避難するため日本に来ています。柔道を通じて繋がれた喜びを感じた一方で、その背景にある戦争の事実を認識した西山さんのコメントには、複雑な心情が反映されていました。

「戦争から避難して日本に来た子どもたちに、正直に言ってなんと声をかければ良いかわかりません。だけど、彼らがこうやって日本に来て、僕たち一緒に柔道できたこともなにかの縁。ここにいる限りは、彼らには大好きな柔道にたくさん触れ合って多くのものを持ち帰ってもらいたいです」(西山さん)

深く考えすぎて沈んだ気持ちで接しても、彼らに残るものはなにもない(羽賀選手)

続く24日の回では、会場校である浅野高校に加え、逗子開成高校と慶應義塾高校の生徒が参加。これは「同年代同士で柔道による国際交流を経験してほしい」という井上さんのアイディアによって実現したものです。この貴重な場で多くのことを得ようと、実技に取り組む子どもたちの目線は終始、井上さんと羽賀さんへ釘付けに。

「メダリストの言葉には重みがあって、とても刺激を受けました。ウクライナの子どもたちとは言葉は通じないけれど、組手をすることで心が繋がった気がします。これがスポーツの良さだな、と感じることができました」 浅野高校の生徒は振り返ります。

そして、ウクライナの子どもたちも「今日のこの経験を自分の国の友だちにも伝えたいです。日本は素晴らしい国で、今日は夢にも思わなかった一日でした」と喜びを口にしていました。

二人のメダリストの技術指導は、日本とウクライナの若き柔道家たちにとっては、まさに夢のような時間でした。

貴重な時間を過ごせたと感じたのは、子どもたちだけではありません。井上さんと羽賀さんの心にも、強く響くものがありました。

羽賀さんは振り返ります。

「こういう状況にも関わらず、ウクライナの子どもたちと柔道ができたことはとても嬉しかったですし、子供たちの取り組む姿勢や目つきから、自分も大きなエネルギーもらうことができました。ニュースで国を追われているということ何度も見ましたが、実感がわかなかったというか……。でも、僕らが深く考えすぎて沈んだ気持ちで接しても、彼らに残るものはなにもない。だから、とにかく一緒に柔道で汗を流して『こんなことができるんだよ』『こんな技があるんだよ』と、伝えて、少しでも彼らに驚きや発見を与えようと思いました。子どもたちのリアクションもよかったですし、『この技を教えてほしい』というリクエストもあって。本当に良い時間を過ごすことができました」

そして、井上さんは子どもたちへのエールを込めて思いを口にしました。

「我々では計り知れない困難があると思うので。だからこそ、こうやって柔道をしている時間、日本にいる時間は良い意味で生きがいややりがい、楽しさを感じながら過ごしてもらいたいです。また彼ら、彼女らが楽しそうに柔道をしている姿を見られて本当によかった。私が打ち込みで組み合った子はすごいセンスを持っていましたし、今後が楽しみな子どもたちばかりでした。柔道をする目的は頂点を極めることだけではありません。『オリンピックに出たい』という強い志を持っている子はもちろん応援したいですし、『柔道をずっと楽しみたい』『かっこいい技を決めたい』という目標でも良いと思います。小さなこともで、その目標に向かって頑張る姿が見たいですし、次に会う時にもまた、柔道を楽しんでいる姿が見たいですね」

スポーツの価値を再確認した一日

回の最後には井上さんから子供たちへ柔道衣が贈呈されました。現役時代の国際大会で活躍された井上さんは、柔道衣や畳などが不足して十分に柔道に取り組めない人々に向けてリサイクル柔道衣やリサイクル畳を無償提供する活動をしています。活動の背景には、多くの人へ柔道をする機会を与えたいという思いに加え、自身が世界大会へ頻繁に出る中での経験が大きいとのこと。

「柔道を通じて世界中の方々と知り合って世界中を回ることによって本当にたくさんの方々に助けられた経験がありますから。柔道の精神に『自他共栄』というのがあります。自分だけではなくて、他者と共に栄える。協力し合って生きていくのは大事なことですし、喜んでもらえたら嬉しいです。今回の機会を通して自分自身の成長に繋がりましたし、役に立てることがあれば何でも協力させていただきたいなと思います」

井上さんの活力となっているこの柔道の精神は、多くのスポーツにも通じるもの。置かれた状況や国籍が異なっていても、その壁を越えて交流が深まり、心を通わせることができるのがスポーツの魅力と言えるでしょう。

そして、羽賀選手も改めてこの力を感じたようでした。

「今日、スポーツの価値を改めて感じました。国内の子どもたち向けに技術講習会をやることは多いのですが、今回のウクライナ避難民の子どもたちのような、困難な状況に身を置く人たちに対しても活動をしていきたいなと。でも、何より少しでも早く平和が訪れて、一緒に柔道を出来る日が来ることを願ってやまないです」

日本人柔道家のメダリストから貴重な指導体験を味わえたこと、日本の高校生たちと交流したことはウクライナの子どもたちにとって忘れられない出来事となったでしょう。そして、遠い欧州の地で柔道に励む子どもたちと繋がり、祖国が戦火にある子どもたちが好きなスポーツで喜ぶ瞬間を与えられたことは、西山さん、井上さん、羽賀選手に新たな気付きを与え、大きな活力となったことは間違いありません。

今後もHEROsはさまざまな活動を通じて、多くの人がスポーツのチカラで笑顔になる瞬間を作っていきます。