「マサカリ投法」と呼ばれるダイナミックな投球フォームで知られ、多くのプロ野球ファンの脳裏に記憶された村田兆治さん。

引退年の1989年には40歳ながら2桁勝利を記録した名ピッチャーである彼が、“野球を通じた人材育成” をテーマに活動をしています。

気になるその舞台は、“離島”です。

数百にも及ぶ離島中で参加する自治体の中学生チームを結成し、普段は接する機会のない他の島の選手と優勝をかけて大会に挑みます。

「離島甲子園」と名付けられたこの取組みは、どういった経緯で開催されたのでしょうか。村田さんがその背景と、抱える思いを語ります。

野球で得たものを社会に還元したい

我々人類はみなきょうだいだと私は思っていて。色々な力を合わせて仲間を増やし、それを社会に還元しなければいけないと感じています。

私は野球で多くの賞をもらって、ある程度の名誉と地位もいただいております。ただ、それを自慢するということはこれまでにもありませんでした。とはいえ、この離島甲子園の活動を評価いただけることは本当に嬉しく思います。

私の野球人生はだいぶ昔に終わりました。ロッテ一筋でやってきて、実績を周りに評価された時代はもう終わったものです。引き際については、ちゃんと二桁勝利をしてファンの期待を裏切らなかったのでとても良かったと思います。

でも、大事なのはその後の人生です。そこでも“先発投手”として歩んでいかなければいけないと感じたんです。リードをしていく存在にならねば、と。

そういう意味で、自分の経験をしっかりと社会に還元する活動をしようと決めました。そう思っていた中、これも縁なのですが、新潟県にある粟島に来てほしいという一つの依頼があったんです。これが始まりでした。

喜んでその島へ飛んでいき、15名の子供たちと交流をしました。島の子どもたちに将来の夢を聞いたところ、「学校の先生になりたい」とか色々なことを言っていたのですが、その幅を広げてあげたいな、と思ったのです。

また、自分の目標を設定した上でどうなりたいのか、どうしたいのかを考えることは子どもたちにとっても大事なことですし、努力や忍耐を覚えることも大切。“挑戦していく” 姿勢を伝える必要もあると痛感しました。そして、野球を通じてそういった機会を与えたいと。

40歳で現役を引退してから10年かけて東西南北いろいろな島を回って三角ベースやバット、ボールなどを渡す活動をしました。その中で、様々な島で子供たちと触れ合い、彼ら彼女らが成長する姿を見てきました。活動の中で子どもたちに “挑戦する姿勢” や “礼儀正しさ” が備われば島を出ていっても通用できる、と伝えました。

頑張っている人に対しては、誰でも丁寧に相手をしてくれるし、応援してくれるよ、とも。ただ、島から出ていかない子も多いのは事実です。そうなると、接する人の幅にも限りができてしまいます。

だからこそ、野球を通じて挑戦することや礼儀などを学ぶだけでなく、他の島の人と交流する場も作ってあげたい。そう思って、離島が参加する野球大会「離島甲子園」を始めようと決断したのです。

実施にあたって、多くの企業さんや行政が協力してくれました。離島甲子園の理念に賛同してくれる方々がたくさんいて、本当に嬉しかったですね。

様々な離島を持ち回りで開催するのですが、参加した島のチームからは、「野球での交流を通じて島がひとつになることを実感しています」との声をいただきます。

運営してするのにしんどさはありますが、こういった声をいただけることが、大きなやりがいの一つですよね。

地元の中学校の吹奏楽部に開会式で演奏してもらったり、同じく司会も地元の中学校の生徒にやってもらったり。役割・経験を与えた上で、一人一人に「これをやったことを自慢してよいからね」と伝えています。このような体験が人間を育てますし、「島を離れても頑張れる」という自信に繋がりますから。

初のプロ野球選手が誕生

今年、巨人の育成ドラフトで、6位に菊地大稀選手が指名されました。彼は佐渡高校出身で、佐渡島初のプロ野球選手になりました。離島甲子園経験者として初のプロ野球選手でもあります。こういった存在は、島に刺激と勇気を与えますよね。


もちろん、プロへ進むことだけが刺激を与える存在になれるという意味ではありません。

例えば壱岐島の選抜で離島甲子園を経験した選手で、島に残って壱岐高校に進む選手もいれば長崎海星高校へ進学する選手もいます。彼らの選択が後輩に刺激を与えます。

また、島を離れて甲子園に出て有名になる選手もいるんですよ。これも島に活気を生みますよね。離島甲子園が存在する意味とも言えます。

コロナで2回も中止になったのは残念ですが、開催数も12を数えます。島での思い出はたくさんあります。宮古島と石垣島はライバル意識が強く、応援合戦で盛り上がっていましたね。


離島甲子園とは別なのですが、ライフワークとして父島・母島に行った時も印象的なことがありました。まず、行くまでが大変でした。27時間も船で移動したので、もちろん酔ってしまい。海から飛び降りたくなりました(笑)。

御蔵(みくら)島という場所に十数人の子供たちがいたのですが、みんなおとなしかった。そんな中、一塁ベースの駆け抜けの練習をするとき、見に来ていたおばあちゃんが「私が手本にやるから」と言って走ったこともありました。息を切らして倒れるんじゃないかと心配になりましたけど、子どもたちを勇気付けたいという思いを持っている人はどの場所にでもいるのだな、と思いましたね。

子どもたちには、野球だけじゃなくて大会に出て何を思うのかを大事にして欲しいですね。中学を卒業してから野球を続けるか辞めるかは本人の次第。野球を通じて人としての成長ができれば良いのです。

フライが上がった時に声を掛け合わないで落としてしまったら悔いが残る。取れそうな選手が優先的に手を上げてボールを迎えに行く。でも、風の影響で落下点がずれるかもしれない。それも考えてもう1人はカバーをする。こういう些細なプレーでも知恵や仲間への思いやりの部分が含まれています。

1年生の子は三塁コーチャーをやって声が枯れるまで3年生を支える。3年生は出られない1年生の分まで頑張って、最後は「応援してくれてありがとう」と感謝を伝える。こうやって絆が生まれます。

試合で生まれる絆はすごいものです。子供たちが頑張るから大人も頑張れる。子供たちの頑張りが与える刺激や影響は大きいですよね。

「夢と希望と勇気を持ってチャレンジをして、島同志の絆を作る」

これが離島甲子園のテーマでもあるのですが、こういう場面が活動の中で見られたときにやりがいを強く感じます。

私も、この活動からスポーツの力を再確認することが出来ました。自分自身を成長させる場でもあるし、一生懸命努力する先に得られるものなど、様々な体験ができます。

これは人材育成にも繋がる。子どもたちには、スポーツを通じて得られる知識や経験をその後の人生に生かしてほしいと、私は思いますね。

※本取組はアスリートの社会貢献活動を表彰する『HEROs AWARD』の2021年度、チーム・リーグ部門で受賞されました。

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https://sportsmanship-heros.jp/award/