2020年12月19日に、元フットサル日本代表の久光重貴さんが肺がんで亡くなりました。2013年にがんが見つかってから、7年半の闘病生活を経ての最期でした。

重貴さんが闘病中に立ち上げたのが、一般社団法人Ring Smileです。同時期に上咽頭癌と闘っていたデウソン神戸の鈴村拓也氏(現在は同チームの監督)と共に設立し、理事を務めていました。

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しかし、前述のように重貴さんが逝去。その後、理事の座を受け継いだのが、実の弟であり元フットサル選手である久光邦明さんです。

重貴さんが亡くなり1年が経ったいま、重貴さんの意思をついでRing Smileの活動を継続させる邦明さんに、その思いを聞きました。

亡くなる直前に託された理事の座

一般社団法人RingSmileを引き継ぐ話は、お見舞いに行った際に兄から伝えられました。「お前に引き継いでほしい」と。ただ、そこで「わかった。任せて」と言うと、兄の死を前提とした答えになってしまうので、「一緒にやろうよ。ベッドで寝ている状態でも大丈夫だから」と話しました。


3日後、兄は亡くなりました。

その後、社団法人の理事という役職を引き受けたものの、何をしたらいいのかわからない状態でしたね。

フットサル教室や慰問活動、募金ブースの活動は兄の生前から関わっていたので現場の動きはわかっていたものの、裏側については無知でした。事務的な作業も、どういった方々の支援があって動いているのか、ということも。まずはご支援いただいている企業の方たちへの挨拶が先かなと思い、年明けの1月は挨拶回りで過ぎていきました。

コロナ禍でもあったので、慰問して子供達と触れ合うことはなかなかできない状況でした。ただ、だからこそ事務的な作業や他にできることをやろう、と。その中で、埼玉県の朝霞市に自動販売機を設置させてもらいました。これは購買額が小児がん患者の支援金に繋がるものです。いくつか設置してきたのですが、自分が理事になってから出来た初めてのものです。

これを目にした時、すごく嬉しかったんですよね。もともと兄が立ち上げた社団法人だし、自分が何をしたというわけではない。でも、兄が亡くなってから話を進めて、自分が関わって達成できたものがその一台。

思わず空を見上げて「やったぞ」心の中で思いましたね。

これから、Fリーグのクラブがある全ての地域への設置を目標に頑張っていきたいです。

兄のサポートのために、大分から湘南へ

兄からがんを知らされたときのことは鮮明に覚えています。2013年のW杯予選・日本vsオーストラリアの試合を見ているとき、急に電話がかかってきたんです。

「メディカルチェックで引っかかり、検査を受けて癌が見つかった」と。

家に帰って泣き崩れましたね。

その後、家族で病院へ行った際に先生から余命宣告の話を受けました。でも、兄は「余命は聞かない」と言って自分と一緒に診察室を出ていき、母だけが余命を聞きました。聞かないでどうするのかと思ったのですが、兄は「もう一度ピッチに戻る」と言ったんです。病院の先生からは「フットサルは絶対にやらないでください」と言われていましたが、兄の意志は固かった。

その当時、僕はバサジィ大分でプレーをしていて、兄は湘南ベルマーレに在籍していました。病気の兄のために何か力になりたい、と思っていた中、湘南から移籍の話があったんです。当時の相根澄監督と水谷尚人社長から「ヒサを近くでサポートしてほしいので、選手としてベルマーレに来てほしい」と。断る理由はなく、すぐに荷物をまとめて湘南へいきました。

湘南では兄弟でプレー<邦明さん提供>

その前にペスカドーラ町田で兄と一緒にプレーしていた時があったのですが、練習場への行き帰りが別々なくらい仲が悪くて(笑)。でも、湘南入団後は毎日の移動が一緒。いろいろと話せました。あの時期は自分にとってもすごく貴重な時間だったなと思います。

Ring Smileを立ち上げてから、笑顔が増えた

兄がフットサル選手として復帰を目指す中で立ち上げたのがRing Smileです。

闘病生活の中で小児がんの存在を知り、そのサポートをしたい、と。同じく癌を患い闘病していたデウソン神戸の鈴村拓也さん(現在は監督)と共に活動を開始しました。

最初は「なぜ小児がんのサポートを?」思いました。自分の病気も大変だし、フットサル自体も辞めてほしいと僕は思っていたので。

兄は普段から弱みを見せない人間でした。でも、その時期は薬の効き目も悪く「もう無人島行って一人で過ごそうかな」と、ネガティブな発言も多かったです。それくらい、精神的にも肉体的にもしんどい状態にあったと思います。そんな中で団体を立ち上げたので、驚きはありました。

でも、Ring Smileを立ち上げてから、兄の笑顔が増えたんです。

兄はよく「笑顔の連鎖はある。子供たちの笑顔が周りの人を笑顔にするんだ」と言っていましたけど、子どもたちの笑顔を生んでいたのも、それをパワーにしていたのも他ならぬ兄でしたね。

間違いなく、この活動が彼を元気にしたと思います。子供たちが笑顔になったり成長したりする姿を見ているとき、兄は自分ががん患者であることを忘れられたと思います。

施設にいくと色々な発見があります。肢体不自由の子たちが前向きにフットサルに取りくんでくれたり、積極的に声をかけてくれたり。僕は最初のフットサル教室から手伝いをしているのですが、当初はこんなに子どもたちが元気な姿を見せてくれるとも、それによって僕自身が勇気づけられるとも思っていませんでした。

今年の10月に、集まった募金を元に神奈川県立こども医療センターの屋上にフットサルゴールを寄贈しました。これは病院の先生との会話が起点です。

「屋上でボールを蹴っている子がいて、ゴールを置いてあげたいんです」と相談されたんです。色々な人と相談して、フットサルゴールを置こうと。これで自分たちの存在意義も感じられるし、ちゃんとしたゴールがあることで子供たちがよりボールを蹴ることを楽しめると。設置した後、小児がんの子どもたちが嬉しそうにゴールに向かってボールを蹴っている姿の写真を送ってもらい、色々な地域の小児がんセンターに設置したいなと思いました。

全国の小児がんの子どもたちをフットサルで元気にしたい

ベルマーレは今でも「ヒサと共に」の言葉を掲げてチームを応援してくれています。本当に、サポーターの存在はありがたいと思っています。だからこそ、自分も兄のことを発信しなければいけないと感じています。いつまでも兄が近い存在であり続けてもらうために、この活動の発信をしなければいけないですからね。ベルマーレは人を大事にしてくれるクラブだと、強く思います。

改めて兄がやってきたことに対して弟としても理事としても感謝の言葉をたくさんもらうし、「フットサルが大好きで見に行っています」「応援しています」という言葉もいただきます。11月には品川シティとデウソン神戸の試合会場に募金ブースを設置させてもらって、小児がんの子どもたちを呼んで試合観戦をしました。そこで何か感じてもらえればな、と。

子供たちが夢を持ったり、悩みが出てきたときに手助けができる存在でありたいなと、改めて思いました。兄が積み重ねてきたことを消さないためにも活動は続けなければいけないですし、兄のことを知らない人が「良い活動ですよね」と言ってもらえるようになりたいです。

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コロナ禍のためオンラインでのイベントも実施 <邦明さん提供>

施設の慰問やフットサル教室を通じて、子どもたちは「治療は辛いけど、あの人たちが来てくれた時に元気な姿でいたい」「病気は辛いけどフットサルをしたいから頑張ろう」と発言してくれていると聞きます。

こうやって他者を元気付けられる力がアスリートの持っているものなんだな、と思いました。僕らアスリートはスポーツを通じてメンタルの強さや諦めない姿勢を学んでいると思うんです。そして、やり続けることで見える景色の素晴らしさも知っている。もちろん、素晴らしいものだけではないですが……。ただ「自分の力で頑張ればそういった景色が見える可能性が高まる」ということを、説得力を持って伝えられるのがアスリートだと思います。

僕は外の世界を見るために “一歩” を踏み出せない人間でした。でも、兄がきっかけを作ってくれました。理事の座を引き受けてからは、色々な世界を見ることができて、色々な人に会うことができました。間違いなく人生においてそれはプラスに働いています。

だから、多くのアスリートには何かきっかけがあれば競技外の活動に踏み出してほしいです。

僕は兄がいたからサッカーもフットサルも出来た。そして、今こうやって社団法人の理事にもなっている。役割が務まっているかどうかは別ですけど(笑)。

全てのきっかけをくれたのは全部、兄でした。その後ろ姿を見て歩いてきたので、今度は僕が子供たちに対して何か頑張るきっかけを与えられる人になりたいな、と思います。