2024年7月6日、石川県七尾市立能登島小学校。
新しくなったプールの完成を祝う式典が始まった。アーティスティックスイミング元日本代表の杉山美紗さんが登場すると、「みさみさ!」という子どもたちの声が聞こえてきた。
これまで何度も一緒に遊んでくれた「みさみさ」が、今日は特別な水着に身を包み、アーティスティックスイマーとして目の前に立っている。子どもたちの表情には、驚きと期待が交錯していた。
「本日は、能登島小学校新プール完成記念式典に…」
緊張しながらも優しい笑顔で語りかける杉山さん。
これから先もずっと、この場所で子どもたちが楽しめるように。
そんな願いを込めたプールの改修工事は、震災の影響で大幅に遅れた。
未だに体育館は使えず、子どもたちはプレイルームと呼ばれる小さなエリアで体を動かしている。それだけに、この夏に間に合った新しいプールの完成は、特別な意味を持っていた。
ピカピカと輝くプールに光が差し込む。日々の生活だけではなく、学校生活さえも不自由を強いられ続ける子どもたちに届いたその光は、キラキラと輝く子どもたちの笑顔に共鳴していた。
戸惑いから自信へ
2024年1月1日、能登半島を襲った巨大地震は、一瞬にして人々の日常を奪った。
道路は寸断され、水道や電気のライフラインは大規模に損壊。多くの人々が今なお、困難な生活を強いられている。
杉山さんは、日本財団HEROsの災害支援チームの一員として、2月中旬にこの地に入った。
「とにかく自分にできることを」という思いで、何度も現場に足を運んだ杉山さん。珠洲、輪島、能登、志賀、穴水、七尾の全地域を訪問し、子どもたちとの交流を重ねてきた。しかし、30箇所以上の被災地や避難所を巡るその活動の中で、杉山さんの胸には自問自答が渦巻いていた。
「正直、戸惑いがありました。電気も水もない状況で、アスリートに何ができるのか。子どもたちに笑顔を届けることが、本当に今、必要なのか ─」
そんな杉山さんの心に、訪問先の学校の先生の言葉が響く。
「震災以来初めて、子どもたちが笑顔になりました」
この言葉が、杉山さんに自信を与えた。
「心が喜ぶこともやっぱり必要なんだ。私にできることがある。役に立てることがあるんだと思いました」
想いを形にするスポーツの力
今年3月、能登島小学校を訪れた杉山さんは、新プール完成記念式典の話を耳にした。
「自分一人でも絶対に協力します!」
その想いを口にした瞬間から、杉山さんは実現を後押しする力によって、大切な出会いへと導かれていく。
まず、金沢スイミングクラブ小立野アーティスティックスイミング日本選手権代表チーム(ASチーム)との出会い。ASチームは杉山さんが学生時代に競技生活を共にした親友であり、HEROs災害チームの一員である榎本紀葉さんがコーチを務めている。
杉山さんは彼らが日本選手権で8位に入賞した演技を目の当たりにし、その力強さと情熱に心を打たれた。
「地元の子たちが能登に思いを届けたいと頑張り、その結果、日本選手権で8位に入賞した。彼らの一生懸命な演技とその情熱を、子どもたちや多くの人に届けたいと強く感じました」。
さらに、アーティスティックスイミングの先駆者であり、HEROsアンバサダーの奥野史子さんが、この流れを加速させた。
「ふーさん(奥野さん)に偶然会う機会があり、お願いというよりも、こんなことがあるんです、と話しました。すると、ふーさんが『私も行くよ!』と言ってくださったんです!」
奥野さんは、その時の思いをこう振り返る。
「美紗ちゃんの熱意に触れて、これは行くしかないと。水の競技者として行かない理由はないし、私自身、HEROsの活動に色々な形でもっと参加したいと考えていたんです。」
想いを口にし、誰かに届ける。それによってその想いに応えるように人が集まる。思いを後押しするために、競技者同士、ときに競技を超えて、つながりが加速する。
それこそが「スポーツの力」だと、杉山さんは言う。
スポーツが紡ぐ希望の瞬間
この日、子どもたちのために準備された、4つの特別なパフォーマンス。
オープニングは【がんばろう石川】をテーマに、能登の祭りをイメージしたASチームの演技。子どもたちは、初めて間近で見るアーティスティックスイミングの世界に引き込まれていく。
続いて披露された、杉山さんのソロ。水面を滑るように優雅に泳ぐマーメイドのような姿に、子どもたちは魅了され、自然と歓声が上がった。
次に、杉山さんと榎本さんによるデュエット。10年以上の時を超えて再び息を合わせた二人の元気いっぱいの演技は、子どもたちの手拍子を誘った。
最後は、杉山さん、榎本さん、ASチーム、そして子どもたち全員による合同パフォーマンス。子どもたちは総立ちとなり、みさみさと練習した決めポーズもバッチリ。プールは笑顔と歓声に包まれた。
できることから、やりたいことへ
「言葉にならないです…本当に…満たされたなって…」
式典直後、達成感を噛み締めていた杉山さんは、新たな夢について語ってくれた。それは「能登島水族館でのマーメイドショー」の実現だ。
「活動を続ける中で、能登島水族館のジンベイザメが亡くなってしまったことを聞きました。それならその水槽にマーメイドたちが入り、演技を披露したい。年に1回でもいい。マーメイドジャパンによるマーメイドショーを開催すれば。それがきっかけで能登に人が集まるし、関心も続いていく。絶対やりたいです。やります!スポーツやエンターテイメントには、社会を動かす力があるから!」
杉山さんの意識が変わった。
それは「できること」から「やりたいこと」への、大きな飛躍だった。
スポーツが描く、未来への航路
杉山さんの体験は、まさにHEROsが目指す姿そのものだ。
「できること」から始めた活動が、「やりたいこと」を見つける原動力となり、今、その思いはアスリート自身の手によって、さらに未来へと広がっている。
「時を超えて、人とつながっていくこと。そして、そのつながりが社会を変えていく。それこそが、スポーツの力」という杉山さんの言葉に、私たちHEROsが信じる未来が、ある。
「HEROsとの出会いは、アワードに参加させていただいたのがご縁でした。当時は自分に何ができるんだろうって思っていて、その中で、色々な活動をされてる皆さんにすごい刺激を受けました。同時に未熟さを感じ、自分なんかがって思う気持ちも、もちろんありました。それでも目の前にあること、今、自分ができることに全力で取り組んでいったら、今回のように、こんな私でも少しでも役立てることってあることを実感できた。きっといろいろなことができるアスリートの力が集まれば、もっと大きな化学変化を起こしていける。ぜひ皆さんと一緒にやっていきたいです。」
アスリートがHEROになる社会
アスリートをHEROにするのではなく、アスリートが自らHEROになる、社会。
そのスタートは、杉山さんのように今ある想いを口にし、誰かに伝えることから始まるのかもしれない。上手く言えなくてもいい。実現できるかわからなくてもいい。そこに遠慮は必要ない。その一歩から、確実に社会課題解決の糸口は生まれ、共感と行動の輪は、広がっていくから。
杉山さんの言葉が、力強く響く。
「自分が社会貢献をしたという感覚はないです。単純に今目の前の人に何ができるのかっていうところから動き始めた。その中で、一緒に泳いだ思い出ができたり、アーティスティックスイミングを間近で見れたことが、子どもたちの心に少しでも残ってくれたら嬉しいし、今この瞬間だけでも、笑顔になってくれたことが本当に嬉しい。社会貢献って実はそんなところから始まっていくのかなと思います」
かつてスポーツの迫力に魅了され、アスリート人生を始めた選手たちのように、この日、新しいプールで見たアーティスティックスイミングに心が動いた子どもたちがいる。「初めて見て、すごく楽しかった!」と目を輝かせる子どもたちに、アスリートは自身の原点を見出すだろう。
自分たちが経験したあの瞬間のように、スポーツとの出会いが子どもたちの未来に新たな道を照らし出す。この静かな、しかし確実な連鎖こそ、アスリートだけが紡ぎ出せる、かけがえのない贈り物なのかもしれない。
杉山さんから始まった「スポーツの力」は、この先の未来もずっとつながっていく。その波紋は、やがて大きなうねりとなり、新たな希望の航路を描いていくだろう。
※杉山さんのインタビュー動画はこちらからご覧いただけます: