元・車いすバスケットボール日本代表の根木慎志さんは、全国の学校を巡り自身の経験を伝える活動を行っている。これまで訪問した学校の数は3600校にも及ぶ。この数字は、全国にある学校のおよそ10分の1だ。根木さんは、なぜそれほどまで精力的に講演活動を続けているのか? そこには根木さんを支えてきた「ある思い」があった。
根木さんを襲った不慮の事故
幼い頃から風邪をひきやすい体質だったという根木さんがスポーツに出会ったのは、小学2年生の時だった。テレビドラマがきっかけで、柔道に興味を持つようになった根木さんは、母親に意思を伝えると、すぐに柔道を始めさせてもらえることになった。「スポーツをするのは大好きだった」と口にするように、中学では水泳、高校ではサッカーと、さまざまなスポーツに取り組んだ。柔道では全国大会に出場、水泳でも地元・奈良県内における中学生記録を打ち出すなど、一つのことに夢中になった。
いまも笑顔を絶やさない明るい性格の根木さん。幼い頃から人を笑わせることが大好きで、クラスのムードメーカー的な存在だったが、突然、人生を一変させる出来事が起きた。高校卒業を目前にした1月のことだった。
運転中の事故によって脊椎を損傷し、車いすでの生活を余儀なくされたのだ。歩けない体になったことを悟り「人生の全てを失った」と感じたこともあったという。入院当初は、不安や後悔、怒りなどのネガティブな感情が渦巻いていたが、次第にそのような感情すら持てなくなった。大好きだったお笑い番組を見ても笑えず、おなかが空いていても食事を美味しいと感じることはなくなった。まさに「無」の状態に陥ってしまっていたのだろう。
きっかけは車いすバスケとの出会い
そんな絶望の淵にいた根木さんが立ち直るきっかけは、スポーツだった。根木さんの病室に、突然、車いすに乗った若い男性が現れて、いきなりこう言ったのだ。
「バスケせぇへん?」
根木さんは、あまりにも突然の言葉に戸惑ったが、この言葉が根木さんの人生に大きな影響を与えた。
「最初は訳がわからなかった。バスケなんてできる訳がないと思っていたから。でもその人が一生懸命にバスケの魅力を語ってくる。その人が乗っていた車いすは、鮮やかなカラーリングが施されていて、しかも、よくみると体つきもガッチリしている。いま思うと、決して上手な説明ではなかったが、キラキラした表情でバスケの魅力を語る姿に、“何かがあるんじゃないか”と少し心が動いた」という。根木さんの中の止まっていた時計の針が、再び動き始めた瞬間だった。
目標が生まれたとき
こうして1週間後に車いすバスケの練習を見学することになった根木さん。車で迎えに来てもらうことになったのだが、そこでさっそく驚きの光景をみた。
「誰かが運転して送ってくれると思っていた。でも、車いすに乗った人がいきなり運転席に乗り込んで、車を操作し始めた。車いすで生活をしている先輩と一緒に行動し、“車いすでも色々なことができるんだ”ということを目の当たりにした」。
目的地の駐車場に到着し、練習が行われている体育館に向かって車いすを進めて行くと、「キュッ、キュッ」と車いすのタイヤとフロアの摩擦音が聞こえてくる。時折、金属と金属がぶつかり合う音が響き渡った。練習を見る前から、根木さんは、胸の高まりを抑えられなくなっていた。
当時は、パラスポーツが普及していなかった時代だ。もちろんスマートフォンさえあれば、簡単に情報が取り出せる時代でもない。先輩から病室で聞いた話以外に、予備知識のなかった根木さんの目に飛び込んできたのは、車いすに乗った人たちが、真剣な表情でプレーしている姿だった。車いすを自在に操り、激しくぶつかり合い、シュートまで決めてしまう。想像をはるかに超えた光景に圧倒されながら練習に見入っていると、今度は根木さんの元に、チームの最年長らしき人が近寄ってきて、こう問いかけた。
「シュートを打ってみないか?」
いざ、車いすを動かし、バスケットボールのリングを見上げると、想像以上に遠く感じた。驚きを感じながら、力一杯に放ったボールは、1mほど浮いてすぐにコートを転がった。リングに届くどころの話ではない。目の前でシュートを決めている選手たちと自分とのギャップに、負けず嫌いな性格がよみがえってきた。
「事故にあってから、初めて楽しさとか、悔しさ、恥ずかしさといった感情が生まれた。できない悔しさもあったが、それ以上に“ゴールを決めることができたら気持ち良いだろうな”というワクワクした気持ちがどんどん大きくなった」と当時を振り返る。
「できない」ということの意味
その日、根木さんは何度もリングをめがけてボールを投げたが、結局、その思いがリングまで届くことはなかった。しかし、「その夜は興奮して全く眠れなかった」と語るように、根木さんの気持ちはすでに未来に向かっていた。車いすバスケと出会い、失意からの再出発の日となったのである。
その後、根木さんが、目標を達成するまでには、3カ月という時間を要したが、「これほどまで、できないことを継続することはなかった。やり続けたからこそこうした結果が出たと思う」と振り返る。また、この努力の過程で「できないことは決して悪いことではないと気付いた」という。
「もしあのとき、簡単にゴールを決めていたら、バスケは続けていなかったかもしれない」。
それまではできないことは恥ずかしいことだと感じていた根木さん。しかしこのとき初めて、できないからこそ “できるようになりたい”という意思が生まれ、ワクワクする人生が始まった。
「夢や目標というのは、一瞬でも頭の中にイメージして生まれるもの。実現するのに困難はつきものだが、ワクワクしながら、喜びを感じる瞬間に向かう楽しさを味わってほしい」と口にする。
できないことにチャレンジし続けた競技人生
その後、車いすバスケで日本代表キャプテンを任されるまでになった根木さんだが、その競技生活は、決して平坦な道のりではなかった。
車いすバスケでパラリンピック日本代表のメンバーに選ばれるのはたったの12名。車いすバスケの場合、障がいの度合いに応じた持ち点制度があるため、他の選手の障がいの度合いも加味しながらチームが構成される。このため、チャンスすら巡ってこないこともある。根木さんは、パラリンピックのコートに立つ自分の姿を想像しながら競技に取り組み、23歳の頃には初めて日本代表候補合宿に召集された。にもかかわらず、ソウル、バルセロナ、アトランタと3回のパラリンピックではすべて落選し、あと一歩のところでメンバー入りを逃した。アスリートとしての年齢もピークを超え、諦めかけた時期もあったが、それでも可能性を信じて、2000年のシドニーパラリンピックを目指した。その甲斐あって、16年越しのパラリンピック出場の夢をかなえたのだ。しかもキャプテンとして。
根木さんが、年齢に抗いながらチャレンジを続けることができたのは、「人間の可能性」を信じて生きて来たからだ。そのような経験を持つ根木さんは、講演活動でも子供や若者に「人間の可能性はすごい」ということを伝えている。
HEROs LABに感じた可能性
そんな根木さんが、8月14日に「HEROs LAB」で中学生・高校生に向けたオンラインスクールの講師として登場した。HEROs LABとは目標の立て方、モチベーションの保ち方、覚悟の決め方、感謝の気持ちなど、アスリートならではの価値や考えを伝えるオンラインスクールだ。この日は全国各地から参加した若者たちのために、約2時間にわたり過去の経験を伝えた。
参加者の「落ち込んでいる時はワクワクを感じることができないと思うが、どうすれば根木さんが車いすバスケと出会った時のようにワクワクを感じることができるのか」という質問に対して、「想像を超えたものや、それぞれイメージすらできなかったことが目の前で起き、それがプラスに作用するとワクワクが生まれると思う。だからこそ車いすバスケとの出会いは本当に想像を超えたことがあったのだと思う」と根木さんは答えた。講習の最後には「“できないことに可能性がある”という言葉に救われた」「話を聞いて楽になった」「勇気をもらった」といった感想や、「今日の話を聞いて新しいことにチャレンジすることが人生の価値になると思ったので、もっとチャレンジすることに前のめりになりたい」といった所信表明が参加者から寄せられた。
根木さんは、HEROs LABについて、「これまで時間をかけて全国を巡って講演を行ってきたが、この形式なら、1日でたくさんの生徒を集め、伝えることができる」とその可能性に言及し、今後の講演活動にも活かしていくことも考えている様子だ。
HEROs LABは、今後も中学生、高校生に向けたオンラインイベントを実施予定だ。今後のイベント内容や申し込み方法についてはHEROs LAB特設サイトから確認いただきたい。